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鳥取城(鳥取県鳥取市)

新陰疋田流
事理の会

愛洲移香斎

上泉伊勢守

 愛洲移香斎(愛洲日向守)藤原久忠(1452~1538)は戦国時代前期に活躍した、陰流兵法の創始者です。伊勢国(現・三重県)出身で、日向国(現・宮崎県)の鵜戸神宮に参籠した折、神示を受け「陰流(影流)」を編み出しました。

 陰流はシントウ流・念流(もしくは中条流)と共に日本の兵法三大源流に数えられ、多くの支流・分派を派生させたのみならず、『武備志』等に引用されるように遠く中国にまで影響を与えたとされます。

 上泉伊勢守(上泉武蔵守・大胡武蔵守とも)藤原秀綱(信綱とも)(1508?~1573?)は、戦国時代後期に活躍した、新陰流兵法の創始者です。その後の日本の剣術に多大な影響を与え、剣聖とも称えられます。

 上野国(現・群馬県)出身で神道流・陰流・念流を学んで深奥を極めたのち、新たに「新陰流」を編み出しました。

 地元上州で長野氏に仕え、「上野国一本鑓」として名を馳せましたが、主家の滅亡に伴い、新陰流弘流のため諸国を巡り兵法研鑽にその生涯を尽くしました。​複数の高弟が諸大名に召し抱えられ、特に柳生家は徳川宗家の御流儀として名を馳せ、江戸期の剣術に多大な影響を及ぼしています。

疋田豊五郎

 疋田豊五郎(匹田・侏田・挽田;文五郎・分五郎とも)藤原景兼、号・栖雲斎(1537?~1600年代?)は、新陰流流祖・上泉伊勢守の甥とされ、出身は上州とも加賀ともいいます。若年より伊勢守について新陰流を学び、大成しました。柳生石舟斎(柳生新陰流)、丸目蔵人佐(タイ捨流)、神後伊豆守(神影流) (*1) と並んで新陰流四天王とされます。

 独立してのちは織田信忠、黒田長政、細川忠利等の有力諸大名に新陰流兵法を教授しました。なかんずく時の関白・豊臣秀次の指南役として天下にその名を轟かせましたが、秀次自害ののちは細川家を主として西国一帯にその兵法を伝えました。

​ また豊五郎は伊勢国(現・三重県)にて塚原卜伝の高弟・雲林院松軒より新當流を学び、特にその鑓術に反映させたと考えられます。さらに赤松三首座の高弟・小笠原甲明 (*2) より念首座流を学び、小太刀・二刀等を取り入れたようです。

猪多伊折佐

 猪多伊折佐(猪田とも)源重能(重良・重吉とも)(?~1633)は、疋田豊五郎の高弟です。豊五郎より新陰流兵法・鑓を学びました。大坂城落城ののち岡山の池田家に仕官し、主家の転封に伴い鳥取に移りました。

 伊折佐の剣術は師・豊五郎から伝えられた新陰流兵法をそのまま伝承したものだと考えられますが、鑓に関しては師の教えを元に独自に編集・整理し、「疋田流(新陰疋田流)」として完成させました。

 猪多をはじめとした継承者の技量の高さ、並びに流儀としての技術の確かさを背景に、新陰疋田流は鑓の流儀としては鳥取藩の主流の位置を占めるに至りました。

*1 神後伊豆守の代わりに奥山休賀斎とする場合もあり

​*2 伝書によっては牧応相に学んだとするものもあり

上泉伊勢守墓所

▲ 上泉伊勢守墓所 群馬県前橋市上泉町 西林寺境内

疋田豊五郎(1606)『鑓之目録』

▲ 疋田豊五郎(1606)『鑓之目録』 

猪多伊折佐(1612)『新影流口伝書』

▲ 猪多伊折佐(1612)『新影流口伝書』

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